経済学のすヽめ、あるいは「イノベーターのジレンマ」の経済学的解明 ブックガイド
新卒で入社した企業を退職する際、僕自身が言った言葉をはっきりと覚えています。
仕事をしながら少し経済学を勉強している中で、経済学のみならず学問は実務の現場でかなり役立つはずだと思うに至りました。
しかし、学問と実務の現場はまだまだ隔たりがある。そして、僕はそれを行うには知識が少ないと感じています。だから退職し、経済学大学院に行くことを決めました。
そう宣言してからほぼ1年が経ったある日、その実務の現場と学問を繋ぎそうな書籍が出版されました。
「イノベーターのジレンマ」の経済学的解明、という本がそれです。
(以下、本書)
まだ大学院入学から2ヶ月程度のペーペーですが、自身のためにも、”経済学を学ぶ意義はどこにあるか、経済学に何ができるのか”を整理しつつ書きたいと思います
みなさんがこの本を読む視点として、いくばくかのガイドにもなれば、幸いです。
経済学って何がいいの?何ができるの?
一言で言えば、
「ときには対立する複数の仮説たちについて、どれが正しいか厳密な方法で明らかにすることができる」
ということです。
具体的にはどんなことでしょうか?
これを説明するため、東大の神取先生著、『ミクロ経済学の力』を一部引用したいと思います。*1
事例 0.1 価格転嫁と常識的議論の問題点:
原油価格が近年高騰していますが、とくにそれが激しく上がり始めた2005〜2006年に、「燃料費が上がったとき、製品を値上げしてコスト上昇のツケを消費者に回すことができるのは誰か?」ということがさかんに議論されました (これを「価格転嫁」といいます)。
マスコミやインターネット上での大多数の意見は、
●大企業は、その強い力にものを言わせて値上げをし、燃料費の上昇のツケを弱者である消費者に回しているが、
●激しい競争にさらされている中小企業は力が弱く、価格転嫁ができずに困っている
というものでした。
しかし、少数ながら逆の意見もありました。『読売新聞』北海道版は、 つぎのように述べています:
……[ガソリンスタンド] 35店が値上げに踏み切った。価格競争が激しい石油業界では、スタンドが卸値の上昇分を吸収する余力はほとんどなく、小売価格に転嫁せざるを得ない状況となっている。
(読売オンライン 2005年5月3日)
この事例からわかるのは、つぎの二つのことです。
1)社会問題に関する常識的議論は、なんでも「当たり前」に思えてしまう。
「激しい競争にさらされている中小企業は力が弱く、価格転嫁ができずに困っている」と言われれば、「そんなの当たり前だ」と思えるし、また「激しい競争にさらされている中小企業は余力がほとんどなく、小売 価格に転嫁せざるを得ない」と言われればやはり「そんなの当たり前だ」 と思えてしまうのではないでしょうか。しかし、よく考えるとこれらは 全く逆のことを言っているのであり、両方が正しいはずがありません。 したがってわれわれは二つ目の教訓を得ます:
2) 常識的議論は、時として全く正反対の結論を導く。
(中略)
上の事例からわかる通り、常識的議論が100あったら、そのうち90はどこかおかしいものと思って差し支えない。ミクロ経済学の一つの大きな役割は、こうしたさまざまな常識的な議論の中から本当に筋の通ったものを発見するための道具を提供する、ということなのである。
"常識的議論"の中から一番もっともらしい解を導き出すため、経済学ではおもに数学を用います。
私たちが言葉を用いて議論をする際、暗黙のうちに仮定している思いこみや、曖昧なまま使っている言葉の定義を明らかにすることで、クリアに議論を進めるためです。*3*4
思いこみや曖昧さを排除し、厳密な議論で問いを解明していく。それが経済学の魅力です。
なぜ経済学を知るために『「イノベーターのジレンマ」の経済学的解明』がいいの?
さて、この神取先生の言葉を背景に、本書の6章にある次の文章を読むと、見方が変わるかもしれません。*5
クリステンセン氏が既に語ったこと以上のことを、何か発見できる保証はあるのだろうか?
その答えもイエスだ。
彼の手法は、取材と、言葉による記述だけなので、良い意味でも悪い意味でも「フワッと」している。「どうして既存企業のイノベーションは遅かったのか?」というメインの問いに対しても、(中略)
キチンと数えていくと10以上の仮説なり論点が、著書のあちこちに無造作に散りばめられている。
だが、それだけだ。
現実のいろいろな側面を言い当ててはいるのだろうが、「答え」が何だったのか結局ウヤムヤのままだ。生煮えである。
‥‥‥こういうと批判にしか聞こえないかもしれない。だが逆に言うと、クリステンセン氏は、私たちのために「面白い現象」と「問い」を見つけてくれた、とも言える。そして彼は本格的な実証分析の3歩手前くらいの段階で論文と著書を発表し、後世の私たちのために「有望な研究テーマ」を準備してくれたのである。別に皮肉を言っているわけではない。こういう経営史研究は、経済学者にとって非常にありがたい。
幸いなことに、ちょうど私は最後の3歩にあたる「理論に根差した実証分析」の専門家なので、このテーマを経済学的に煮詰めることが出来る。(中略)
そして、ひとたび事態が明確になれば、「では、どうすべきか?」という次なる問いに対して、大局的な見地から答えることが出来る。
本書のレビューで「結局クリステンセンが言ってることじゃないか」という文章が見受けられます。
最終的に結論が「当たり前じゃん」と思われるものであったとしても、”どの”常識的議論が正しいか解明することの重要性は、神取先生の言葉より明らかでしょう。
「私の考える最強の議論」から導かれた論理的っぽい仮説にしたがって動いていたら、最終的に正反対の場所に到達していた、という大惨事にはなりたくないですよね。
ここで、経済学が「できないこと」についても触れておきたいと思います。
経済学は、あくまで分析や思考の「道具」です。伊神先生も「大局的な見地から答えることが出来る」と書いておられますが、経済学で行えるのは意思決定の補助です。
自分、あるいは自社が何を大事にするか(問いたい問いをどこに設定するか)や、解けたあとどのように具体的な行動に落とし込むか、そこに経済学の出番はないかもしれません。*6
その先は、ご自身が置かれている状況や大事にする価値観を元に、えいやっと決めること*7が必要になってくると思います。
上記を念頭においても、経済学の考えを知っておいて損はありません。なぜなら、私たちが直面する状況を明らかにする手法を提供し、その後の具体的な行動を決める根拠を得ることができるからです*8。
むしろ、自身の中で理論化・体系化されたものであったとしても、経験と感覚をもとに仮説を出し、議論を行い、具体的な行動を決めることは危険でしょう。
幸いなことに本書は、数多くの「前提知識がなくても大丈夫!」とうたっている本の中で、その文言に僕が納得をしたほぼ唯一といっていい書籍です。
さらに、「この研究ではこういうことがわかった。一方これではこれがわかった」みたいな”いくつかの研究のわかったこと紹介”をする書籍は多くありますが、ただひとつのテーマについて問いの設定から解き終わるまで、一気通貫して書いた一般向けの経済学書は本書以外にほぼ存在しないのではないでしょうか?
しかも冗談みたいなたとえ話がおもしろいし、身近だから誰にでもわかりやすい。下記のtweetが言い得て妙です。
『「イノベーターのジレンマ」の経済学的解明』
— Kohei Kawaguchi (@mixingale) June 9, 2018
親戚の集まりでおじさんが「満君、経済学の先生なったらしいな、どんなことやっとんのや」ってうっかり聞いたら博論の論旨を「全部」素人にもわかるように比喩や具体例を積み重ねて七時間ぶっつづけで話し続けたみたいな勢いの本。
経済学に何が解明できるか。その思考法を、楽しみながら存分に感じ取ることのできる良書です。ぜひご一読ください。
※下記の書評もあわせてお読みいただくと良いかと思います。
「イノベーターのジレンマ」の経済学的解明(伊神満)読後感 – Be acitive!
追記
twitterでつぶやいたところ、ありがたいことに著者の伊神先生からコメントを頂いてしまったので、追記させていただきます。
心のこもった感想をありがとうございました。僕自身、学部卒で金融機関に勤務した挙句「自分が何も分かっていない事が分かった」ので経済学を勉強することにしました。この15年間で学んだ全てを当時の自分に伝授するようなつもりで書いたので、琉基のような方にあのように評して頂けるのは本望です。
— 伊神満 (@MitsuruIgami) June 12, 2018
付録:オススメ書籍紹介
経済学者に「オススメのミクロ経済学の本って?」と聞くと、高い割合で『ミクロ経済学の力』を答えられると思います。
しかし、数式とグラフが多いため、初学者は途中で挫折する可能性が高いと気がしています。*10
ほんとうの初学者の方には、下記をお勧めします。
『ミクロ経済学の入門の入門』
まえがきより。
僕自身、新書は時間をかけずにさっくり読めるものが好きだ。ミクロ経済学を学ぼうとする皆さんも、他にやりたいこと、やらねばならぬことは多々あるだろうから、本書を使って時間配分を最適化してほしい。
*1:『ミクロ経済学の力』は、経済学をイチから学ぶ方には難しめにできていますが、本書を読む前に、その序章だけでも1度は目を通していただくと良いかと思います。(たったの7ページです!)
*2:上記の答えを知りたい方は『ミクロ経済学の力』を読むべし!
*3:以下、グラスゴー大学・林貴志先生の 『ミクロ経済学 増補版』”はじめに”より
「勘違いして欲しくないが、数学を使うのは読者を幻惑するためではなく、その逆である。数学が誰もが一定の訓練をすれば使いこなせるフレームワークだからである。定義・仮定および論理的過程を明確に共有するためには、また自然言語による論証が陥りがちな誤りを防ぐには、数学を援用するのが一番である」
*4:「自分は現在がどのような状況であるか、自身の常識から正確に特定できる。経済学の力を借りるまでもない」という方はご自由にどうぞ。
*5:太字はブログ執筆者によるものです
*6:というところ、実は自分の中で答えが出ておらず…。具体的な行動に落とし込むまでは、経済学+実務家の視点が必要かと思っていて、そのようになれるよう頑張ろうと思います(突然の決意表明)
*7:「えいやっ」って別にテキトーに、という意味ではありません…。語感が好きなだけです。
*8:経済学の本を読んで「具体的に何をすればいいか書いていなくて期待外れだった」という方がいますが、経済学は"あなたが具体的に何をすればいいか?"を明らかにするための、強力なツールを提供しているのです
*9:つっこみたくなると思うので、先に言っておくと、突然の呼び捨て…笑。とてもお忙しい方ですので勢いで書かれたのでしょう…笑
*10:まだ経済学を研究する意欲がさほどなく、忙しかった社会人1年目の僕は挫折しました。非常に良い書籍であり、一度ミクロ経済学を学んだことがある人であっても、さらに深く学べる素晴らしい書籍であることは間違いないです。